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2015年3月30日 (月)

きな臭くなってきた世の中*****

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bomb  春の桜に浮かれているが、今から70年前の大阪大空襲を受けた3月に

   よい思い出を持たない者も大勢いる。

bomb 私の夫も其の1人で、こんな思い出を語ってくれた。

   明日3月30日夜8時から大阪MBSラジオで「大阪大空襲」を語る番組が放送される。     

   彼は戦争を体験した最後の世代の一人として、次の世代に「日本とアメリカの戦争」の   

    ことを語り繋げねばと常に話している。.

bomb 以下、夫の話である。

  「当時、私は国民学校2年生、住まいの西区北堀江(今のなにわ筋通り)から

  越境通学で南区の大宝国民学校(大丸の東側)に通学していました。

  あの夜、初めは南西の空が赤くなったのを記憶しています。

  多分、大正区辺りが早かったのでは・・・?

  B29が大きく見えたこと、その機体がキラキラと銀色に輝いていたこと。

  間もなく焼夷弾が落されると二階建ての比較的大きい我が家(建坪80坪)が

  一瞬にして火に包まれた。

  その際、火は屋根や二階から燃え始めたのではなく一階から最初に火の手が

  あがったこと。焼夷弾は大屋根二階を突き破り,一階まで直接達して

  火を噴いたのでしょう。

  当時の防火訓練では屋根に落ちた焼夷弾を大型のハタキで叩き落とす

  練習をしていた記憶があります。物理的に有り得ないことですよね!

 逃げる前に玄関横の格子の火をオシッコで消そうとしたこと。

 家の前の道路にあった防空壕に向かったこと。

 母親が蒸し焼きになるからと強引に私の手を引き四ツ橋筋に向かったこと。

 途中の家ごとにある防火用水で防空頭巾に水をかけ、子ども用の小さな

 布団を水に浸しながら両側から迫る炎の中を母に遅れまいと必死の思いで地下鉄心斎橋

 駅に向かった。これは地下鉄に乗る為ではなく、心斎橋駅なら防空壕として安全だろうと

 母親の判断であったようです。

 心斎橋駅では大丸百貨店の窓という窓の全てから火を噴いていた光景は

 恰もガスコンロの火を連想し、後々までハッキリと記憶している。

 大丸百貨店が倒壊すると地下鉄の駅は大丈夫かと不安になったが

 御堂筋を横切るアンダーパスに入った。

 その通路が混雑していた記憶はない、間もなく来た地下鉄電車も混んでいなかった。   

 地下鉄で梅田に行き、阪神の一番電車で叔母の住む出屋敷に向かった。

 地下鉄が 一番電車かどうかは判らない。 多分五時前では?

 幸い途中何回も水を被ったので大した火傷はしなかったが眉毛は完全に無くなっていた。

 前を歩いていた赤ん坊を背負った女性のネンネコが燃えていたこと!

 防空壕では多くの人が焼け死んだこと。

 我が家の焼け跡からは30発以上の焼夷弾の燃え殻が見つかったことを

 母から聞いた。 戦災の独特な焼け跡の匂いは余り思い出したくない。

 三月の末には滋賀県の高宮町へ九月まで集団疎開した。

bomb 以上、夫の話である。

  今は亡き義母から聴いた話とほぼ一致している。

bomb 政権が変わり、集団的自衛権など物議を醸しているが

   戦争を知らない若者たちよ、君は世界の戦場に参戦出来るか?

   体験した者が少なくなった今こそ耳を傾けたまえ。*****

            再見

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